| 「恋の歌」といえばポップスや演歌など、私たちの暮らしの中で欠かせないものですが、今から約千二百以上前の奈良時代も盛んに歌われていました。「万葉集」です。
万葉集は天皇、皇后から名もない農民にいたるまで己の恋情を精いっぱい歌いあげており、その姿は読む物の心を揺さぶらずにはおきません。「愛の宝庫」と呼ばれるゆえんです。
私が特に好きな歌を一つ紹介します。
ふりさけて三日月見れば一目見し人の眉引思ほゆるかも――大伴家持
広い空を振り仰ぐと三日月がほのかに光っている。やさしく弧を描くその形は、たった一目会っただけのあの女性の眉を思わせる…。
眉引きは、まゆ墨で描いた眉のこと。ほのぼのとした趣を漂わすこの三日月の歌は、文武双方に秀でた名門大伴家の貴公子、家持の十六歳の作です。そして家持は万葉集の編者の一人ではないかと言われています。
「一目見し人」とは、どんな女性だったのでしょう。初々しい乙女なのか、それとも清楚(せいそ)な年上の女性であったのか…。少年の繊細で美しい歌です。振り仰ぐ空に三日月を見かけたら、どうぞ、そっと口ずさんでみてください。
万葉集は主に高校の古典で扱う教材ですが、私は品詞分解や逐条解釈が嫌いだったので、授業では教科書には載っていない恋歌をよく黒板に書いたりして、歌の味わいについて話をしました。古典の研究者を養成するのではなく、古典を通じて大人になっていく上で大切な情操を養ってほしいと思ったからです。
私の授業を受けたある男子生徒は「ぼくは夢を見ているような、うっとりとした気持ちでした」と感想を寄せてくれました。普段は目立たないおとなしい子でした。
恋歌は、万葉集の後も平安時代の「古今和歌集」をはじめとする「勅撰(ちょくせん)和歌集」に一つのジャンルとして盛り込まれていきます。勅撰(ちょくせん)というのは天皇の命によって編まれた歌集のことですから、いわば日本という国が恋愛を公認していたわけです。
こうした恋歌の伝統の延長に、現代の私たちも生きていることをしっかり確認しておきたいものです。
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